明治150年二代清水喜助が手掛けた「三大擬洋風建築」
『東都築地保弖留館海岸庭前之図』 一曜斎国輝 筆
2018年は、明治元(1868)年から満150年の年に当たります。
開国とともに諸外国から伝わった技術や知識を吸収し、近代化が急速に進んだ時代、「明治」。この時代にヨーロッパからもたらされた洋風建築の技術と様式によって、日本の建築も大きな変化の時を迎えました。
擬洋風建築を生み出した二代清水喜助
当社の二代目店主 清水喜助は、時代の変化を感じ取り、今後の主流が洋風建築になると見越し、開港場・横浜で、その技術習得に取り組みました。
そして、日本の伝統的な建築技術を基礎に、和洋折衷様式の擬洋風建築を生み出し、日本の近代建築の先駆けとなる3つの建物を完成させました。
それが「築地ホテル館」、「第一国立銀行(旧三井組ハウス)」、「為替バンク三井組」です。
日本初の本格的洋風ホテル「築地ホテル館」
1868(慶応4)年。9月に改元し、明治元年となるこの年、江戸・築地鉄砲洲(現在の中央区築地)に、日本初の本格的洋風ホテル「築地ホテル館」が完成しました。
このホテルは、江戸幕府が外国人専用の宿泊施設として計画したものです。
基本設計を米国人建築家リチャード・P・ブリジェンスが、実施設計と施工を二代清水喜助が手掛けました。
外壁は、土蔵や武家屋敷の塀などに用いられる海鼠(なまこ)壁※のような和風建築である一方で、屋根の煙突や風向計、建物をめぐるベランダなど、各所に洋風建築の要素を取り入れた和洋折衷の建築様式となっています。
※海鼠壁 … 四角い平瓦を並べて貼り、継ぎ目に漆喰を丸く盛り上げて塗る壁の仕上げ方法
100余室あった客室内には、暖炉や水洗式トイレが整い、宿泊した英国人から「欧米の最高級のホテルに匹敵する」と評されるほどでした。
正面入口に、横浜までの乗合馬車の発着場や私設郵便局も設置されていた築地ホテル館は、単なる宿泊施設ではなく、交通、通信の拠点など、交易場としての重要な役割も担いました。
開化の建築「第一国立銀行(旧三井組ハウス)」
築地ホテル館の経験を生かし、二代清水喜助が次に手掛けたのが、日本初の銀行である「第一国立銀行」でした。
東京・兜町(現在の中央区日本橋兜町)に1872(明治5)年に完成した建物は、もともとは三井組の銀行として計画されたものでしたが、国立銀行条例の施行によって新設された第一国立銀行に譲渡されました。
木造2層の洋風建築の上に、日本伝統の城郭を思わせる塔屋を載せたその姿は、和洋折衷が進んだ「開化の建築」とも呼べる新しい建築の姿でした。
第一国立銀行の復原立面図(左)と復原断面図(右)(堀越三郎 著『明治初期の洋風建築』より)
第一国立銀行の初代総監役、頭取を務めた渋沢栄一は、この建物について、「わが国におけるもっとも最初のそして他に類の無い銀行建築である」と述べ、見たこともない銀行建築に果敢に挑戦した二代清水喜助の意気を高く評価しました。
第一国立銀行の独創的なスタイルは、擬洋風建築の最高峰に位置するとも言われています。
鯱が象徴的な「為替バンク三井組」
第一国立銀行に建物を譲った三井組は、東京・駿河町(現在の中央区日本橋室町)に改めて銀行を建設しました。それが「為替バンク三井組」です。この設計、施工も二代清水喜助が請け負い、1874(明治7)年に完成しました。
木造3階建てで、先の2棟と比べると洋風色を増していますが、建物でもっとも目立つ屋根の頂上には、和風意匠を象徴する青銅製の鯱(しゃちほこ)が載っています。建物を彩るアーチ形の窓や扉は、伝統の木造技術を駆使してつくられました。
ベランダに並ぶ円柱の上部、柱頭(キャピタル)には、アカンサス(ハアザミ)の彫刻が施されています。
この柱頭は、当社の社宝として大切に保存され、2013(平成25)年に中央区民有形文化財となりました。
擬洋風建築の広がり
二代清水喜助が手掛けた三大擬洋風建築は、またたく間に東京の新名所となり、多くの錦絵が描かれました。
錦絵は、手軽な土産として持ち帰られ、各地の棟梁や職人たちが、擬洋風建築を学ぶ教材となったのです。そして、明治中ごろにかけて、全国で擬洋風建築が建てられました。
二代清水喜助の創意工夫と技術力によって生み出された擬洋風建築。これは、建築の文明開化であり、ここから日本近代建築の歴史は始まりました。
“進取の精神で、なにごとにも挑戦する”。いつの時代も変わらない、シミズのものづくりの原点がここにあります。
記載している情報は、2018年8月24日現在のものです。
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