第28回 四代技師長岡本銺太郎の製図道具

現在ではCADで作成することがあたりまえの設計図面ですが、プロッター出力が主流となるまで、図面は設計者の手書きによるものでした。当社に設計部門の前身となる製図場(せいずば)が設置されたのは明治20年代初期。当時、店員たちはさまざまな製図道具を手に、製図板に向かいました。

岡本銺太郎(おかもとそうたろう) (1867~1918)
1901(明治34)年から1913(大正2)年まで技師長を務め、澁澤倉庫や清水組本店など数多くの設計を手掛けた。

近代洋風建築への取り組みと製図場の誕生

明治時代、日本は急速に近代化が進み、大規模な煉瓦造の洋風建築が次々と建設されました。当時、洋風建築の建物は、設計を政府の技師が行い、施工は基礎や左官などの職種別に民間に発注されることが一般的でした。

大正初期の製図場の様子

三代店主清水満之助は、顧客の要望にこたえるためには、初代・二代以来の伝統を引き継ぎ、洋風建築についても設計施工一貫で手掛けることが重要だと考えます。
そこで、建築の高等教育を受けた工学士坂本復経(※)を技師長(当時は工部監督)として招聘し、洋風建築の設計技術者の育成に力を注ぎます。ここに、当社初の設計部門となる製図場が誕生しました。
技師長は、建築技術に関する知識だけでなく、烏口(からすぐち)やコンパスといった製図器や西洋の製図手法を店内に持ち込みました。製図場の技師(設計者)たちは、製図道具を手に近代洋風建築の設計に挑んだのです。

  • 坂本復経(さかもとまたつね)(1855~1888)
    工部大学校造家学科卒業、工部省、内務省に勤めた後に清水満之助店に入店。清水満之助と共に欧米視察にも赴いた。

緻密な図面を生み出す製図道具

左側の上から、T定規(2種類)、勾配T定規、烏口やコンパス、ディバイダーなどを収めた製図器セット。右側はさまざまな形のスケール。

技師やその補佐の技手(ぎて)は、製図場の机に斜めに置いた製図板の端にT定規を掛け、その上にスケールを滑らせて製図を行いました。鉛筆の芯を平らに削ったり、芯の先を回転させながら定規にあてるなど、シャープな線を引くために工夫を凝らして作業にあたったといいます。
鉛筆で書いた図面の清書(インキング)には、烏口が用いられました。先端の2枚の刃の間にインクや墨を差して用いる筆記具で、均一な線を引くためには経験とコツが必要です。若手店員や製図工たちは、技師長のもとで製図の技術を磨き、知識を深めました。
当時の店員たちの製図技術の高さを、明治後期から大正期にかけて製図場で描かれた彩色設計図(国登録有形文化財)にみることができます。
彩色設計図の制作初期は、上部写真の製図道具を使用していた岡本が技師長を務めた時期と重なっています。

岡本が設計に携わった「東京銀行本店」(左)と「日本橋倶楽部西洋館」(右)の彩色設計図
彩色設計図については、コラム第24回に詳しく紹介しています