第22回 歴史に残る建造物(その10)「世界平和記念聖堂」

第二次世界大戦の終戦から9年後の1954(昭和29)年、原爆の爪跡が残る広島市に完成した世界平和記念聖堂。平和への祈りを込め、被爆した教会跡地に建設されたこの建物は、2006(平成18)年、戦後の建築物として初めて国の重要文化財に指定されました。

世界各国からの協力

世界平和記念聖堂の建設は、戦前から広島で布教活動を続けていたドイツ出身のフーゴ・ラサール神父[後に帰化し、愛宮真備(えのみや まきび)と改名]が発案したものです。
主任司祭を務めていたカトリック・幟町(のぼりちょう)天主公教会で自ら被爆したラサール神父は、被爆地・広島の惨状を目の当たりにし、原爆犠牲者の追悼と慰霊、そして、世界平和への祈りを捧げるための聖堂建設を決意。国内はもとより、欧州をはじめとする海外にも協力を呼び掛けました。これを受けて国内外から寄せられた寄付金や寄贈品が原資となり、聖堂建設が実現することになったのです。

世界平和記念聖堂

竣工 :
1954(昭和29)年
所在地 :
広島市中区幟町4-29
設計 :
村野藤吾
構造・規模 :
RC造 延床面積 2,361m2

日本的性格を尊重した教会

聖堂の設計は、日本を代表する建築家・村野藤吾氏が手掛けました。
建物は、中世の教会を思わせる荘厳な聖堂と高さ45mの鐘塔で構成され、コンクリート打ち放しの柱と梁の隙間にセメントモルタルレンガを積み上げた外壁が特徴的です。外壁は目地をあえて荒々しく仕上げ、所々でレンガを突出させています。これらが独特の陰影を外壁に与え、豊かで穏やかな表情を生み出しています。
一方、「日本的性格を尊重したい」とするラサール神父ら教会関係者の意向を反映し、松・竹・梅をモチーフとした窓枠のデザインなど、日本的な意匠を多く取り入れていることも、この建物の大きな特徴と言えます。

名誉な仕事

村野氏の設計が完成したことを受け、当社による建設工事が着工を迎えたのは、終戦から5年後の1950(昭和25)年10月でした。しかし、同年6月に勃発した朝鮮戦争の影響で物価が高騰。折からの資材不足に加え、資金にも行き詰まり、工事は幾度となく中断を余儀なくされます。
そうした中、現場を託された工事主任・菊池辰弥は、聖堂の完成を待ち望む人々の想いに触れ、「この聖堂は何があっても完成させなければならない」という強い使命感を胸に工事に当たりました。菊池は、少しでも工事費を抑えるため、外注を控え、コンクリート製の窓枠をはじめとする多くの部材を現場で内製。この時代に大胆なPC化に取り組んだ現場の創意工夫と熱意は驚嘆に値します。
一方、社長の清水康雄も「損得を抜きにしてやろう。この仕事は名誉なのだ」と菊池に語り、奮闘する現場を支えました。
数々の苦難を乗り越え、着工から4年後の1954(昭和29)年8月6日に竣工。村野氏は、建設関係者の献身的な努力によって完成した建物について、「隅々にまでが、美しい精神的な労働で包まれている様に思う」と表現しています。

施工中の様子

現場で製作した“ローズウインドー

世代を超えて

聖堂内部

これまで、大規模な維持保全工事を計3回実施してきた建物は、竣工から時を経た今も健全な状態を保ち、教会行事の場、祈りの場、平和学習の場として広く活用されています。
ラサール神父、そして世界中の人々が聖堂に込めた平和への願い。その尊い精神は、重要文化財となった建物とともに、世代を超えて受け継がれていくことでしょう。