第18回 歴史に残る建造物(その6)「碌山(ろくざん)美術館」

1958(昭和33)年、北アルプス連山の麓、信州安曇野・穂高町に完成した碌山美術館。
小規模ながらモダンなつくりで、2010(平成22)年1月には国の登録有形文化財に指定されました。
今では、安曇野で最も人気のある観光スポットの一つとなっていますが、建設当時は資金難で完成が危ぶまれたこともありました。その窮状を救ったのは、多くの人々の善意だったのです。

施工中の様子。設計は、早稲田大学工学部建築科主任教授であった今井兼次氏 ※モノクロ写真提供:(財)碌山美術館

碌山美術館入口のレリーフ。「この館は二十九万九千百余人の力で生れたりき」と記されている

現在の碌山美術館(長野県安曇野市穂高)

聖堂をイメージした建物

日本の近代彫刻の先駆者、荻原碌山(おぎわら ろくざん)[本名・守衛(もりえ)](※)の作品や史資料の保存・展示を目的に建設された同美術館。
建物は、高く尖がった銅板葺きの三角屋根と、その先端に取り付けられたフェニックス(不死鳥)の形をした避雷針、レンガ壁の側面に連続して配置された半円のアーチ窓、正面と背面を飾るステンドグラスの円窓が特徴的です。碌山が青年期にキリスト教に傾倒していたことから、教会の聖堂をイメージして設計されました。
塔の中には「碌山の鐘」が収められ、のどかな山里に美しい音色が響き渡ります。

  • 荻原守衛【碌山】(1879~1910)
    22歳の時に洋画家を目指して米欧に渡り、25歳でロダンの「考える人」に衝撃を受け、彫刻家に転向。主な作品に、「文覚」「労働者」「女」など。

30万人の寄付で建設が実現

建設に当たっての一番の問題は、資金難でした。当社専務取締役の吉川清一(当時)は、文化事業である美術館建設に、いかなる犠牲を払っても協力する覚悟で工事の請負を申し出ました。その熱意は、会社きっての若手技師・桜内幸吉を現場に赴任させたことにも表れています。
しかし、着工後も状況は変わらず、完成が危ぶまれる中、関係者たちの懸命な募金活動が窮状を救います。
郷土の偉人・碌山の作品を残したい、この地に文化のシンボルをつくりたい、という思いから、長野県下の全小・中・高校の生徒たちからも、5円、10円と寄付が寄せられました。支援の輪は広く国内外にまで及び、最終的には30万人から寄付金が集められたのです。

「清水建設が誇り得る建造物の一つ」

起工式(1957(昭和32)年7月)から落成式(1958(昭和33)年3月)に至る8カ月間の記録は、地元中学校の教師・等々力美貞氏の手によって、8mmフィルムに収められています。その中に見ることのできる、旧穂高中学校の生徒たちがレンガや瓦運びを手伝う生き生きした姿などから、美術館の完成を願って共に汗を流した人々の強い思いが伝わってきます。
このように多くの人の善意に支えられて完成した同美術館は、1959(昭和34)年の当社カレンダーの紙面を飾ります。『碌山美術館誌』には、そのことに触れた一節が記載されています。
「形こそ小さいが清水建設が誇り得る建造物の一つであったに違いない。これを見て、このようなすばらしい建築が日本にもあるのかと驚きのたよりを最初に寄せたのは、イランのテヘランに住む一日本人であった」。