第17回 歴史に残る建造物(その5)「歌舞伎座」

歌舞伎の専用劇場として1889(明治22年)に開場した東京・銀座の「歌舞伎座」。その建物は、改築と2度の焼失により、3度姿を変えています。四代目の建物が竣工したのは1950(昭和25)年。その工事を当社が担当しています。それから約60年にわたり多くの人に愛されてきたこの建物もまた、建て替えのため、2010(平成22)年4月、その歴史に幕を下ろしました。

竣工当時(1950(昭和25)年)の歌舞伎座。桃山時代の建築様式を残し、破風大屋根が特徴的。
当社が担当する建替工事は、2013(平成25)年春に竣工

戦後復興の象徴

国の登録有形文化財である四代目の歌舞伎座は、1945(昭和20)年5月に戦災を被り、正面の一部とわずかな外壁だけを残して焼失した三代目の歌舞伎座を再建したものです。建築家・吉田五十八氏(※)の設計による再建工事は、焼失から4年後の1949(昭和24)年に始まりました。
当時は、戦後復興にはほど遠い混乱期。物資に乏しく、厳しい建築制限も敷かれる中、再建を主導した松竹社長(当時)の大谷竹次郎氏は、日本の伝統文化である歌舞伎を何としても守り後世に継承したいという、強い決意と情熱をもって再建に臨みます。竣工後、大谷氏は「歌舞伎座が出来たならば、その開場式の日に玄関で倒れてもいいと思っていた。(中略)立派な器が出来、これ以上の喜びはない」とその胸中を語っています。

  • 吉田五十八(1894~1974)
    日本建築の近代化に取り組み、数寄屋建築再生の大家として活躍。主な作品に、日本芸術院会館(東京)、中宮寺本堂(奈良県斑鳩町)、岸信介邸(静岡県御殿場市)など。

起工式の模様

再建中の様子

再建に懸ける思い

工事を担当した当社OBの清水陽之助は、当時を振り返り、「焼失を免れわずかに残った外壁と廊下部分の屋根だけを活かし、原設計通りに復元するのは、資材もない中、大変な苦労があった。しかし、歌舞伎の伝統にふさわしい建物を建てるという意気込みは会社一丸の思いであり、その思いを背負って工事に臨んだ」と語っています。
一方、大谷氏に請われ、歌舞伎座の取締役に就任した当社社長(当時)清水康雄は、竣工後、次のような言葉を残しています。
「この光栄ある殿堂の復元工事を拝命して以来、大谷社長の歌舞伎に対する全霊全身を傾けられた御熱意を如何にして工事の上に表現しようかと日夜苦心して施工してまいったのである。(中略)また、吉田五十八先生という劇場建築の最高峰をゆく設計に、施工者の苦心は敗戦による種々のハンディキャップを克服して如何に設計者の御意志を正確に具現せしめるかにあった。技術的にも経済的にも、現在の世の中ではこの大工事を完成させることはなかなかの至難の業であったが、私としては、今日の日本としては建築技術の最高の水準を示すものと思っている」
60年を経ても劇場の音響性能を役者の皆さんから称賛されていた事実が、その言葉を裏付けています。
歌舞伎の殿堂「歌舞伎座」。その歴史の裏には、伝統文化の継承に心血を注いだ関係者の思いが息づいています。