第9回 絵図で辿る三大洋風建築 「為替バンク三井組」(上)

錦絵「東京名勝 駿河町三ツ井組ハウス之図」広重画

第一国立銀行の竣工から2年後の1874(明治7)年2月。再び、二代喜助の設計施工による名建築が誕生します。
日本橋駿河町(現中央区日本橋室町)の「為替バンク三井組」。現在の三井本館(1929(昭和4)年竣工、国指定重文)の前身に当たる建物です。
屋上の鯱(しゃちほこ)が特徴のこの建物は、1897(明治30)年頃に取り壊されるまで、第一国立銀行とともに東京の新名所として人気を博し、錦絵のみならず新聞紙面をもにぎわせました。

華々しいデビュー

三井組の銀行として建設した海運橋の建物を第一国立銀行に譲渡した後、三井組は新たに自前の銀行設立と建物の建築に取りかかります。
大番頭の三野村(みのむら)利左衛門は、新しい時代にふさわしい、そして三井組の象徴となる建物を建設するため、設計施工を二代喜助に託しました。
この建物は、1873(明治6)年2月前後の着工からわずか1年足らずで完成。工事の最盛期には、1日に100人もの職人が入っていたと伝えられており、当時としては大工事だったようです。
1874(明治7)年2月11日に挙行された落成式の模様は、新聞にも大きく掲載され、紙面からその盛大さや反響の大きさがうかがえます。
「駿河町三井組煉化三階家建築落成に付、去る十一日棟上の式ありて、三井八郎右衛門其他召使の客は、総て袴羽織にして、大工棟梁清水喜助は狩衣、同世話方之者は麻上下を着用してここに参会し、且大工鳶の者凡二百五十人程一様の外套を着て列をなし、隣町を一斎に減叫巡回す。(中略)群衆雑踏せり」(『郵便報知新聞』1874(明治7)年2月14日)。
また、3日間にわたり行われた建物内覧に、一般市民が大勢押しかける様子も報じられています。

日本初の私立銀行

額絵「為替バンク三井組」 ※1889(明治22)年1月の作。模写は中尾勝徳識

完成当初、「為替バンク三井組」と称されたこの建物は、1876(明治9)年7月に「三井銀行」と名称を替え、以後、日本初の私立銀行として歴史を刻みます。
日本初の銀行建築である第一国立銀行と併せ、歴史に名を残す銀行の建築工事を積極的に推し進めた三野村利左衛門は、旧風を除き改革に取り組む先進的な人物でした。一方、請け負った二代喜助もまた、文明開化という時代にふさわしい新たな建造物の造作に情熱を注ぎました。
二人の力を結集したことで、これらの名建築が誕生したといえるでしょう。