第8回 絵図で辿る三大洋風建築 「第一国立銀行」(下)

錦絵「東京名勝海運橋第一国立銀行」国利画

日本橋兜町4丁目、みずほ銀行ビルの外壁に「銀行発祥の地」と記された銅板を見ることができます。まさしくここが、1873(明治6)年創業の第一国立銀行の発祥地です。
築地ホテル館よりさらに大胆な和洋折衷の意匠は、人々の注目を集め、神社と間違えて“さい銭”を供える見物人も多かったと伝えられています。

斬新で豪壮!

木造5階建て、延床面積約1,295m2、旗竿の先端までの高さが26m、総工費は約4万7,600両。1872(明治5)年に開業した新橋停車場の総工費(約2万2,100両)と比較しても、いかに豪壮な建物であったかがうかがえます。
建物の一番の特徴は、何と言っても、洋風建築に伝統的な城郭建築を組み合わせたその斬新な意匠です。
ベランダの漆喰彫刻(鏝絵/こてえ)、建物最上階の八角の塔屋、石張りされた外壁など、洋と和が美しく調和したデザインに、二代喜助の確かな腕を見ることができます。
しかし、着工に至るまでには5案もの図面を書き直し、文明開化にふさわしい、今までにない建物を造るために腐心を重ねていたのでした。

渋沢栄一に指導を仰ぐ

第一国立銀行の初代頭取である渋沢栄一は、『日本最初の銀行建築』と題し、「当時のこと銀行建築のことは知ろう筈もない。実物を見たことももちろんない。(中略)とにかく清水一個の頭から絞り出し建てた。出来上がったものを今日から見れば、或いは抱腹すべきものであるかもわからぬが、当時にあっては我が国におけるもっとも最初の、そして他に類のない銀行建築である」と高く評しています。(『建築世界』第9巻第4号特別号/1915(大正4)年4月発行)
日本資本主義の父と言われる渋沢と喜助の出会いは、この第一国立銀行建設のころ。当社はその後、渋沢が亡くなる1931(昭和6)年まで、60年という長い歳月にわたり、経営上の指導を仰ぐことになります。

模型「第一国立銀行」
1930(昭和5)年、建築家・堀越三郎が復元した図面を基に制作。堀越は、1913(大正2)年~1917(大正6)年清水組在籍。明治初期の洋風建築研究者として活躍した