第5回 絵図で辿る三大洋風建築 「築地ホテル館」(中)

錦絵「東都築地ホテル館之図」(芳盛)

日本にとって洋風建築の始点となる築地ホテル館や第一国立銀行は、建物の特徴から『擬洋風建築』とも呼ばれています。文明開化の幕開けを象徴するかのように、その斬新なデザインと和洋折衷構想で造りあげた二代喜助は、これまでにない新しい建築の「かたち」を生み出しました。

建築的な特徴

1868(慶応4)年竣工の築地ホテル館をはじめとする擬洋風建築は、1877(明治10)年以降、日本人建築家(※)によって誕生する洋風建築とは、意匠や色彩などが異なり、独特の特徴と魅力を持っています。
一番の特徴は、洋風と和風の要素が混在している点です。ホテル館の延面積は約1,600坪、木造2階建ての建物中央には高さ約18mの物見の塔、屋根上に客室の暖炉用の煙突、1・2階のベランダなど、外観全体としては洋風デザインです。しかしながら、外壁を覆う海鼠(なまこ)壁や塔屋の華頭(かとう)窓、軒先の風鐸(ふうたく)、正面玄関前に配したアーチ形の石造門に取り付けられた木鼻などは、日本の伝統的な建築様式によるもので、これらの和風意匠は館内の細部にも施されています。
喜助は、ただ洋館を真似るのではなく、日本の伝統的な技を駆使しながら新しいものを取り入れ、造り上げることに心血を注いだようです。築地ホテル館は、まさに喜助の強い意思と独創性が集結した名作です。

  • 日本人建築家
    1879(明治12)年、工部大学校造家学科第1回卒業生の辰野金吾(日本銀行・中央停車場)や片山東熊(奈良国立博物館・赤坂離宮)など本格的に西欧建築学の教育を受け活躍した人物。

現代でいうPFI事業

財政難の幕府からの、土地を提供する代わりに事業者が自費で建設すること、完成したホテルの純益金は施工主の所得として許可するとの呼びかけに対し、喜助はホテルの他諸施設の建築土木工事一式と経営権を願い出ます。
総工費約3万両に対し元手資金は僅か2,500両。莫大な資金不足を補うため喜助は小栗上野介(おぐりこうずけのすけ(※))の勧めもあり、仲間を募り一口100両として集めた出資金を元手にホテルを建設、完成後に経営利益から配当金を捻出し、出資者に支払うという策を取ります。まさに株式会社の事業手法ですが、当時は無謀な計画とされ、時に「山師の企て」とも評されました。
とはいえ、民間による事業計画、資金調達、施工、ホテル経営と、さながら現代でいうPFI事業が幕末期に行われていたという史実は、驚きに値します。

  • 小栗上野介
    江戸末期、遣米使節の一員として日本の近代化に尽力した幕臣。

錦絵「東京築地ホテル館表掛り庭の図」(三代広重)