第1回 初代喜助ゆかりの品々

初代喜助幼少期の作「大黒天像」

初代喜助手彫りの大黒天像

富山で生まれた初代清水喜助が、神田鍛冶町で大工業を開業したのは1804(文化元)年。21歳の時です。その後の活躍を物語る資料は幾つか現存しますが、幼少期の姿を伝えるものは手彫りの「大黒天像」のほかにはありません。
越中富山の清水家には、「喜助は幼い頃から細工ものをつくる技能に長け、家屋の改修で不要となった大黒柱の切れ端から大黒天像を彫り上げた」という伝承があります。現在、この「大黒天像」は清水宗家の所蔵となっています。
喜助の時代の棟梁は、「五意達者」な工匠の中から、特に技に長じた者が選ばれたと言われています。「五意」とは、手仕事(大工仕事)、絵様(下絵)、彫物(彫刻)、式尺(木割:設計)、算合(積算)のことです。「大黒天像」を見ると、喜助は若くして、棟梁に求められる資質の一部をすでに備えていたことがうかがい知れます。

甲良豊後守宗廣(こうらぶんごのかみもりひろ)が用いた儀式道具

当社所蔵の儀式道具(左)と
日光東照宮所蔵の儀式道具(国宝)

喜助は1798(寛政10)年から12年の間、日光東照宮の修理工事へ参加したとされています。これがご縁で、当社が甲良家より1928(昭和3)年に譲り受けた国宝級の所蔵品があります。
三代将軍家光時代の東照宮造り替えの際に、工事を担当した幕府作事方大棟梁の甲良豊後守宗廣が用意した二組の儀式道具のうちの一つがそれです。一組は御宮上棟後に東照宮に奉納され、1951(昭和26)年に国宝に指定されています。もう一組が御本地堂上棟後に甲良豊後守宗廣に下賜され、甲良家が代々、家宝として守り伝えてきたものです。二組は、意匠飾りこそまったく異なるものの、原形は同じです。

高田八幡宮隨身門立面図

掛け軸に納まった高田八幡宮隨身門の立面図

1989(平成元)年、戦災で焼失した高田八幡宮(通称穴八幡、新宿区西早稲田)の隨身門(現隨神門)を当社が伝統的建築手法を用いて再建しました。
焼失した隨身門は、初代喜助の手によるもので、自ら描いた建地割図(立面図)は創業者が残した貴重な資料として大切に保管されています。その図面から、当時の絵様を知ることができます。
喜助は隨身門の工事にあたっては、その半ばで千両余りの損失が予想されたものの、工期を守り、自ら損失を負担したと言われています。こうして、初代喜助が築いた当社の原点である「信用と技術力」は、200年を超える歴史の中に脈々と受け継がれており、日本屈指の建設会社となった清水建設の礎となっていることは言うまでもありません。