当社の土木史を語る上で欠かせない工事の一つが、泰阜発電所。本格的な重力式コンクリートダムとして、1936(昭和11)年に建設されました。当時、同発電所の出力、ダムの規模ともに国内屈指。それまでダムはもちろん、大型土木工事の経験さえ乏しかった当社は、威信をかけてこの難工事に挑みます。
山岳地天竜峡に建設された泰阜発電所
当社に土木専門の部署(工事部第六部)が発足したのは1927(昭和2)年のこと。1930(昭和5)年の改称をもって土木部となります。それからわずか2年後の1932(昭和7)年、経験豊富な業者にとっても難工事中の難工事と言われていた泰阜発電所工事を受注します。
“あばれ天竜”の異名を持つ天竜川を堰き止める工事は困難を極めました。事実、工期中に見舞われた洪水は十数回。その濁流は建築物や資機材など、すべてを一瞬にして呑み込んでしまうほど激しいものでした。
さらには1934(昭和9)年11月。堰堤本体基礎の河底部分の掘削完成を控えた工程上最も重要な時期にありながら、左岸山腹が大崩壊。現場関係者はもとより、会社として物心両面から叩きのめされるほどの過酷な状況を招いたのです。
4年の歳月を費やし、まさに当社の総力を結集して工事を完成させたものの、当時の当社の半期利益(約100万円)を上回る損失を出すことになります。ダム工事の経験不足は、いかんともしようがなかったのです。
工事の最高責任者、谷井(やつい)陽之助(※1)は後に、『新入社員に贈る言葉』の中で、「昭和10年12月に大堰堤の工事を終え、始めて水を通し水車の爽快な音とともに運転を開始した時には、工事に関連した私どもは泣けて泣けて涙が止まらなかった」と語っています。
谷井はその涙も乾かないうちに東京に戻り、病床の専務取締役・内山熊八郎(※2)を訪ねて完成を報告。内山はその一報に安堵し、涙を流しながら谷井と工事関係者らに感謝の意を伝え、翌1936(昭和11)年1月に亡くなります。内山は建築出身でありながら、「泰阜ダムも当社にとって貴重な経験。今後も土木の勉強を続けていくことが大切だ」と最後まで語っていたそうです。
事実、この工事の経験は後の黒又川ダム工事の入手につながり、泰阜で育った技術者が後の土木部の担い手となっていったのです。
ブルドーザーやショベルカーなどの大型建設機械はなく、
ツルハシやスコップ、モッコなどを手に人海戦術によって
工事は進められた