第6回 絵図で辿る三大洋風建築 「築地ホテル館」(下)

錦絵「東都築地ホテル館庭前之図」三代広重画

築地ホテル館は、文明開化の時代を象徴する最も初期の洋風建築です。これまで多くの研究者たちが、錦絵やわずかに残る史料を基に、築地ホテル館の調査、研究を行ってきました。
錦絵からは、建物のみならず、庭園や築地居留地の風景、行き交う人々の様相など、文明開化時の情景をうかがい知ることができます。

築地ホテル館の評判

築地ホテル館が姿を現すと、人々は今まで見たこともない形に驚き、感嘆したそうです。このため、訪れる人は後を絶たず、その評判は瞬く間に江戸はおろか、国中に広まっていきました。
利用者の一人、英国人サミュエル・モスマン氏は『NEW JAPAN』(1873年)の中で、「欧米の最高級のホテルに匹敵する。湾の入口に面した景勝の地にあり、(中略)塔屋からは、首都の全景、雄大な江戸湾、遠くには富士山を展望できる。日本式旅館の部屋割により約百人の収容だが、欧米式なら三百人収容できる。客室の他、食堂、撞球(ビリヤード)室、長い廊下とベランダ、応接室があり、3ドル即ち9分という妥当な値段で食事・宿泊することができる」と評しています。
また、英国外交官アーネスト・サトウ氏は、築地ホテル館から居宅に西洋料理を取り寄せ、英国公使ら要人と会食したと回想録に記しており、今日でいうケータリングサービスを利用していたことがうかがえます。
一方、建築としての評価ですが、故黒川紀章氏は、著書『共生の思想』の中で、「大胆な和洋混在であり、(中略)二つの異質な文化の衝突と混在が共生の美を創り出している」と述べる一方、英国の建築評論家サー・リチャーズ氏の言葉として「日本の建築で世界の建築史に記述されるべきものは、現代建築を除けば築地ホテル館とそれに代表される和洋折衷建築」とも紹介しています。

二代喜助の手腕

実存期間がわずか4年という築地ホテル館でしたが、その間は幕府の瓦解、明治維新という激動の時代と重なります。多難な世情に加え、築地居留地も思うように発展しなかったことから、次第にホテル館の経営も厳しくなり、1870(明治3)年、喜助は経営から退きました。
しかしながら、日本初となる本格的洋風ホテルの建設と経営という一大事業を手がけた、その技術力と行動力は見事であり、その後日本各地に造られる建築物に大きな影響を与えました。

錦絵「東京築地鉄炮州景」二代国輝画