第4回 絵図で辿る三大洋風建築 「築地ホテル館」(上)

額絵「築地ホテル館」

1868(慶応4)年9月、元号が明治に改まり、新政府は国の近代化に向け積極的に西欧文明を導入し始めました。それは建築分野においても、江戸時代の伝統的建築から西洋建築へと、「変革」が求められるようになったことを意味します。
初代喜助を継いだ二代喜助はこの変化をいち早くとらえ、後に明治初期の三大洋風建築といわれた「築地ホテル館」「第一国立銀行」「為替バンク三井組」を手がけます。日本の建築史に名を刻んだこれらの作品は、額絵や錦絵からその姿を見ることができます。

錦絵の格好の画題

正式名称は「外国人旅館」。江戸に来る外国人のための宿泊・交易場として、1867(慶応3)年8月に着工し、翌年8月に竣工した日本で最初の本格的洋式ホテルです。
建築技師R・P・ブリジェンス(※)の基本設計の下、二代喜助は実施設計と施工、さらにはホテルの経営にも当たりました。52歳の時です。
和洋折衷の構えから、江戸から改称した東京の新名所として錦絵の格好の画題になり、その姿を残す錦絵は百を超えるなど、人気のほどが伺えます。錦絵の流布によって、築地ホテル館の名は全国に広く知られると同時に、地方の棟梁や大工は、錦絵から洋館造りを学んだと言われています。
1872(明治5)年2月、築地ホテル館は銀座大火により焼失。実存期間はわずか4年でしたが、まさに洋風建築の記念碑的作品です。

  • R・P・ブリジェンス
    幕末から明治前期にかけ、横浜や東京で活躍した米国人建築家。横浜および新橋の停車場(1872(明治5)年)などを設計。

額絵で記録に残す

額絵「築地ホテル館」 裏書

額絵とは、木板に描かれた絵図のことです。当社には、この三大洋風建築を描いた額絵が、戦火を逃れこれまで大切に保管されてきました。
写真の「築地ホテル館」は、1939(昭和14)年に、清水組の命を受けた深沢寫真師の手により、古図から模写、制作された額絵です。
縦1.5m、横2m、厚さ11cmほどの桐の板材に精細に描写され、鮮やかに彩色されており、明治初期の洋風建築を知り得る貴重な文化財です。また、額絵の裏板には、築地ホテル館の建設の経緯と額絵制作の由来が墨書きされています。
この額絵は、昭和20年代半ばごろには、中央区宝町の旧本社の講堂に掲げられていました。手斧始や創立記念日などの行事のたびに、社員たちは誇らしくこの額絵を眺めたことでしょう。