第3回 浄衣(じょうえ)と国名(こくめい)が物語る初代喜助の功績

工学会が1927(昭和2)年に発行した『明治工業史建築編』の「清水店」と題した当店紹介文書の中に、次のような記録が残されています。「嘗穴八幡の建立に當り、喜助は選抜されて施工の任に當り、(中略)実に能く之を完成したり。是に於いて位を賜り、素襖(すおう)着用を許さるゝに至れり」。
これは、喜助が浄衣(じょうえ)着用と国名(こくめい)拝領という栄誉を神祇伯白川家から賜ったことを意味します。

喜助着用の「浄衣」

浄衣 【1849(嘉永2)年頃】
朱と緑の玉虫織の絹地の仕立て。
光に照らされると玉虫色がなんとも美しい

浄衣とは、白の布または生絹(すずし)で仕立てた狩衣(かりぎぬ)形をした装束の一つで、主に神事の折に着用します。喜助は穴八幡での功績により、1849(嘉永2)年、神祗伯(じんぎはく)白川家(※)から上棟式に限り「風折(かざおり)烏帽子(えぼし)浄衣浅黄(あさぎ)指貫(さしぬき)」の着用が許されます。
これにより、神官に代わり喜助自らが祭主となって神事を執り行えるようになりました。66歳の時です。厳しい身分制のもと服制も規定されていた時代、浄衣着用が許されることは大変な名誉とされました。
また、喜助は1851(嘉永4)年には、天台座主(ざす)(天台宗の長)である上野寛永寺の輪王寺宮(りんのうじのみや)から、武家の装束である「熨斗目(のしめ)着用」と「非常旅行の節帯刀」の許しを得て、浅草寺・寛永寺の御用達大工を拝命しています。

  • 神祗伯(じんぎはく)白川家
    当時、神々の祭祀を司り全国の神社を総監する神祗官の長官が、白川家であった。

素襖(すおう)・長袴(ながばかま)

素襖・長袴 【1849(嘉永2)年頃】
浅葱色の麻布地の仕立て。胸紐・菊綴りは
山吹色の皮を使用

素襖とは、両胸などの5カ所に家紋を染め出した布製の直垂(ひたたれ)のことで、その起源は室町時代に遡ります。江戸時代には、六位(当時の身分制)以上の武家の式服と定められました。長袴は、素襖とセットで着用されるもので、素襖と同じ色・模様の生地で仕立てられます。
写真の素襖は、右三巴紋が白抜きされ、「安五郎」という名札が付されています。このことから、喜助の弟子がこの素襖を着用し、浄衣姿の喜助に従い式に臨んだものと思われます。正装に威儀を正した喜助、素襖姿の弟子たちの威風堂々とした立ち居振る舞いが目に浮かぶようです。

国名「日向(ひゅうが)」の表札

「日向」の表札 【1849(嘉永2)年頃】
白木のひのき材の両面に「清水日向」と
墨書きされている

浄衣着用の許しと同時に、喜助は「日向」という国名を拝領します。国名とは、江戸時代に優秀と認められた職人や芸人が、官位のようにして名乗ることが許された、いわゆる受領名(ずりょうめい)に似た意味をもつものと推測されます。
喜助は「清水日向」という国名をもって、祓式(はらえしき)に臨みました。また、これに続き「河内(かわち)」「出雲(いずも)」という国名も拝領。浄衣着用と同じく、国名を名乗ることは当時の棟梁にとって、最も晴れがましい栄誉であったに違いありません。事実、建築業において国名をもつ者は、僅かに過ぎませんでした。
喜助は、国名の拝領により、社会的地位の向上はもちろん、同業社との差別化を図り、幕府直轄工事へのさらなる参画を視野に入れていたことは、想像に難くありません。こうした鋭い先見性と誠実な仕事ぶりは、二代喜助に受け継がれ清水屋のその後の発展を築きます。