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このページは、サイト トップの中の文化遺産の保存・再生の中のプロジェクト紹介「第1回 旧澁澤邸解体および移築工事」のページです。


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プロジェクト紹介

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当社は1804年の創業以来、数々の建造物の建設に携わってきました。
それらの中のいくつかは、わが国の貴重な文化遺産として現在も生き続けています。
その姿を永く将来の世代へ継承していくために、当社が取り組んできた保存・再生プロジェクトからいくつかをご紹介します。

第1回 旧澁澤邸解体および移築工事〜1878年竣工、唯一現存する二代目・清水喜助の作品〜

日本経済近代化に貢献した澁澤榮一翁が東京に構えた6ヵ所の本邸のうち、唯一現存しているのが、1878(明治11)年に二代目・清水喜助が建築した、深川福住町の澁澤邸です。

1908年に三田綱町に移築され、1929年に清水組(現・清水建設)の元技師・西村好時※1の設計で洋館が増築されました。その後1946(昭和21)年に、日本銀行総裁や大蔵大臣を歴任した澁澤翁の嫡孫・澁澤敬三氏※2により財産税として国に物納され、以後、大蔵大臣公邸、政府第一公邸、三田共用会議所として使用されていました。

1990(平成2)年、老朽化のため建て替えが決定されますが、澁澤家の元執事・杉本行雄十和田開発(現・三沢奥入瀬観光)社長の尽力によって同社が払い下げを受け、1991年に当社の手で青森県の古牧温泉渋沢公園内に移築・保存されました。

2009年7月、青森県六戸町の有形文化財に指定され、2011年夏からは渋沢公園を運営している星野リゾート青森屋により一般にも公開される予定です。

現在の旧澁澤邸

旧澁澤邸の変遷 所有者(家主) 設計/施工 所在地
1878年10月 表座敷の新築 澁澤榮一 二代目・清水喜助 東京市深川区福住町
1891年頃 離れの増築 澁澤篤二 岡本銺太郎/清水組 同上
1908年9月 三田綱町へ移築 同上 清水組 東京市芝区三田綱町
1930年4月 西側に洋館を新築 澁澤敬三 西村好時/清水組 同上
1949年 三田共用会議所として使用開始 国有 同上(東京都港区三田2丁目)
1991年10月 青森県六戸町に移築 十和田開発 十和田開発/清水建設 青森県古牧温泉渋沢公園内
2009年7月 青森県六戸町の
有形文化財に指定
三沢奥入瀬観光 同上

※1 西村好時(1886〜1961)
清水組(現・清水建設)の元技師。大正時代から昭和時代にかけて活躍した建築家。多くの銀行建築を設計したことで知られる。

※2 澁澤敬三(1896〜1963)
日本の財界人、民俗学者、第16代日本銀行総裁、大蔵大臣(幣原内閣)、旧子爵。祖父は澁澤榮一。


建築史的評価

1975年、東京大学名誉教授村松貞次郎氏によって行われた実地および文献調査報告「三田共用会議所建築に関する所見」の要旨は以下のとおりです。

  1. 青淵澁澤栄一の旧邸宅という記念的な意義がまず挙げられる。
  2. 和洋折衷が明治以来の日本住宅近代化の基本的な流れであるが、この建物は、本格的な和風と洋風とを巧みに調和させた優れた設計と施工技術および意匠・用材の優秀さからして、日本の近代住宅史上の貴重な遺構である。
  3. 日本の大工技術は、古来から優れた伝統を誇ってきたが、その大工道具およびその使用技術は、明治中期から昭和の初期にかけて最盛期を迎えたとされている。この建築で、特に中央部分の和風建築“表座敷”の用材および施工の技術、右側の部分洋風の意匠および洋風施工の技術などは、この説を証明するもので極めて水準が高い。
  4. この建築は一企業の始祖の遺作ということだけでなく、我が国の建築近代化の始点にあって、代表的な存在であった二代目・清水喜助の作品としても高く評価しなければならない。 錦絵で有名な築地ホテル館(明治元年)を始めとする洋風の作品と、建設業近代化に果たした彼の先駆的な業績は、日本の建築界において歴史的にも高く評価されている。 1964年東京オリンピックの年、建築界の諸団体共催による第一回日本建築祭において、明治百年の建築界の功労者として辰野金吾ら物故者五人の中の一人として顕彰されたことは、その高い評価を物語るものである。その人の作品ということであれば、一企業を離れて日本近代建築史上の貴重な遺構と称しても過言ではない。

三田網町に移築された渋澤邸。中央右手の2階屋が二代喜助の作

表座敷


表座敷の階段をめぐるエピソード 〜質素を信条とされた澁澤翁〜

二代目・清水喜助は三井組の三野村利左衛門を通じて澁澤翁の知遇を得ました。澁澤翁は「第一国立銀行」での喜助の活躍を高く評価しており、深川の地に住まいの建て増しをするにあたって、二代目・清水喜助に白羽の矢を立てたのでした。二代目・清水喜助が死去したのは1881(明治14)年8月9日ですから、深川の澁澤邸は喜助晩年の作品となります。

欄間彫刻

中央手前が階段の親柱

日本の堂宮(どうみや)建築※3の細部様式を基本にした折衷的な欄干のある階段室、畳の敷き方をそのまま対応させた天井竿縁の形状、彫刻家 堀田瑞松※4による肉厚な欄間彫刻など、細部に二代目・清水喜助の作風をうかがわせるものの、総じて雰囲気は抑制されています。

この理由を推測できる逸話があります。

二代目・清水喜助は特におもんぱかって、2階へ上がる階段の親柱に唐獅子を取り付けることにしました。某日、彫刻家へ依頼してできあがった完成品を、養子の清水武治に取り付けに行かせました。
ところが、澁澤翁は意外にも気に染まぬようすで、武治がいかに「父喜助の気持ちです」と述べても取り付けを許しませんでした。それどころか、住まいはそれぞれの分に応ずべきである、と諭す始末で、武治はむなしく唐獅子の彫刻を抱いて帰路についたということです。


※3 堂宮建築
堂宮とは仏堂と神宮、お堂とお宮のことであり、神社仏閣の建築のことを堂宮建築という。

※4 堀田瑞松(1837〜1916)
彫刻家、発明家。兵庫県豊岡市生まれ。刀の鞘の塗師の家に生まれ、京都で一刀彫の名手となった。東京・京橋に移り住み、明治18年に錆止め塗料を発明し、最初の専売特許第1号を獲得した。

隠れていた縁側の構造が判明 〜深川の地では、楼閣の縁側のように潮に浮かぶ!?〜

1991年、解体された表座敷を確認していたある研究者は、縁側の土台を見て、それが尋常でない構造をしていたことを記しています。実は1階、2階の縁側は、いずれも片持ち梁※5で縁側の荷重を支えていたことが判明したのです。

解体中に発見された片持ち梁

おそらく深川の地において、この縁側は潮を引き入れた庭の池に向けて、楼閣の縁側のように浮かんでいたのだと推測されます。 通常の縁側では短い部材の縁束で支えるところを、約4尺(約1.2m)もある縁側を片持ち梁で受けていたのでした。三田綱町から青森県六戸町へ移築すべく解体した際に、その特殊な構造が姿を現したのです。

梁は高さが6寸(約18cm)あり、池側から見たデザインを考慮して、端は丸く削いでありました。 このような思い切った構造や細部にまでこだわった意匠は、二代目・清水喜助がそれまでに培ってきた幾多の経験がなければできなかったことです。


※5 片持ち梁
一般の梁が両端を固定しているのに対し、片持ち梁は一端が固定、反対側の端が固定されていない自由な状態になっている。

解体および移築工事の様子

現況写真の撮影、テラス床の石割

解体中、表座敷

解体中、表座敷棟周りの小屋組


解体中、表座敷二階客間の壁筋違
(表座敷で唯一の筋違)

梱包された階段室部材

表座敷の建方開始
(一階二階の通し柱)


建方中の表座敷小屋組

造作中の表座敷二階客間

造作を終えた表座敷二階客間


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