壮大なスケールの設計書 ル・コルビュジエが上野に描いた夢

伝統に縛られないモダニズムの旗手、ル・コルビュジェ。生涯にわたり新しい建築の考え方を世に送り出した

日本政府がル・コルビュジエに設計を依頼したのは
美術館ひとつだけ。しかし設計書に描かれていたのは、
企画展示館や劇場ホールまでもが描かれた複合施設計画でした。
これには日本側の関係者も困惑すると同時に
ル・コルビュジエが国立西洋美術館にかける熱い想いを
感じ取ったに違いありません。

美術学校で絵画を勉強中に才能を認められ建築の道へ

国立西洋美術館は、川崎造船所(現在の川崎重工業)の初代社長であった
松方幸次郎(1865~1950)が、1916年から約10年の間に
ヨーロッパ各地で収集した美術品、通称「松方コレクション」を収蔵・展示する
施設として、59年に建設されました。 第二次世界大戦中、フランス国内に保管していた松方コレクションの一部が
敵国人財産としてフランス政府に差し押さえられました。
終戦後、当時の吉田茂首相がその返還を持ちかけ、これに対しフランス政府は、
松方コレクションを主体とした「フランス美術館」を日本側が用意すれば返還ではなく
寄贈する、といった条件を提示。ここから美術館建設計画が始まりました。 その後、当時すでに名のある建築家として活躍していたル・コルビュジエに設計を依頼。
ル・コルビュジエは、自身が長年温めてきた美術館の構想を日本で実現すべく、
55年10月、契約を締結しました。

カレーの市民(オーギュスト・ロダン作)と外観カレーの市民(オーギュスト・ロダン作)と外観
写真提供:文教施設協会

機能性を追求した「建築の新しい5原則」を提唱

 1955年11月にル・コルビュジエが来日、建設予定地を視察しました。
その後、ル・コルビュジエから基本設計書が届いたのは、56年7月のこと。
その内容は、コンクリート打ち放しの細い円柱群に支えられた
正方形の箱形の外観と、2層吹き抜けを配した内部の美しい
空間構成でしたが、美術館のみならず、依頼内容にはない
企画展示館や劇場ホールを含む複合施設計画も描かれていました。 また、57年3月に届いた実施設計図には1枚を除いて寸法が
記入されておらず、トイレや機械室、冷暖房用の配管設備の
スペースなどもありませんでした。こうしたル・コルビュジエの提案に、
日本側の関係者は驚き、困惑したといいます。

1958年、施工の様子
写真提供:国立近現代建築資料館

建築にとどまらず、絵や著作そして家具も手掛けた

パリのル・コルビュジエから送られてきた設計図面はわずか12枚。
しかも図面には1枚を除き寸法が入っていませんでした。
そして、それとともに送られて来た書簡には、日本の弟子たちを信頼し、彼らが寸法を書き
入れることができると信じているというル・コルビュジエの言葉が書かれていました。
そこで弟子である前川國男が構造と設備、坂倉準三と吉阪隆正が建築を担当し、
師の意志を反映しながら新たに実施設計図を起こしました。

写真提供:前川建築設計事務所

人間を基準にした独自の尺度を開発。晩年はモダニズムから離れた独創的な造形も

東京帝国大学を卒業したその日の夜に渡仏。
ル・コルビュジエの初の日本人の弟子として、1928〜30年まで
アトリエに在籍しました。帰国後の35年、前川國男設計事務所を設立。
50年代には、近代技術を建築に取り入れていこうという新しい建築の
方向性「テクニカル・アプローチ」を主張し、戦後の復興期に
日本の建築が進むべき道を示しました。その模範例となったのが、
日本相互銀行本店(52年・当社施工)です。
代表作としては東京文化会館(61年)や神奈川県立青少年センター・
ホール(62年)(ともに当社施工)があります。

写真提供:坂倉建築研究所

人間を基準にした独自の尺度を開発。晩年はモダニズムから離れた独創的な造形も

東京帝国大学文学部美学美術史学科在学中に建築を志すようになり、
ル・コルビュジエに師事することを決意。
1929年に渡仏し、31〜36年にル・コルビュジエのアトリエに在籍。
スタッフの一人として都市計画や住宅設計に携わりました。
パリ万博日本館の設計監理のため37年に再び渡仏。
39年まで彼のアトリエで都市計画を手伝い、帰国後、
坂倉建築研究所を開設。建築設計だけにとどまらず、
伝統とモダンが融合した家具や住宅なども製作しました。
代表作の旧神奈川県立近代美術館 鎌倉(51年)には、柱で持ち上げられた
ピロティなど、ル・コルビュジエの影響が見られます。

写真提供:アルキテクト

人間を基準にした独自の尺度を開発。晩年はモダニズムから離れた独創的な造形も

早稲田大学大学院を卒業後、同大学で助手を務めていた1950年に、
フランス政府給付留学生として渡仏。
50〜52年までル・コルビュジエのアトリエに在籍し、
マルセイユの「ユニテ・ダビタシオン」、インドの「チャンディガールの
都市計画」などに協力しました。帰国後は大学構内に
「吉阪研究室(のちにU研究室)」を設立し建築活動を開始、
集団設計に取り組みました。ル・コルビュジエに関する翻訳や著書により
彼を日本に紹介したことでも知られています。
代表作にヴェネツィア・ビエンナーレ日本館(56年)や大学セミナー
ハウス(65年、当社施工)などがあります。

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